2005/08/13 | 歴史小説から井上靖の詩的本質を見る
类别(凤舞九天) | 评论(0) | 阅读(582) | 发表于 17:04
要旨
 井上靖氏は小説家であるが、本質的には詩人であるとよく言われている。 実に、小説家であるか、それとも詩人であるか、本稿では、井上氏の歴史小説の特徴をめぐって、考察してみた。ここでは、以下の四つの点によって考察した。
一、 歴史の流れの中に、人間性を書いている
二、 絵画的な象徴性
三、 悲哀感と客観性
四、 スタイル形成の原因
 本稿ではこの四つの点を中心に取り上げ、氏の歴史小説から、詩的特徴を始め、井上氏の歴史小説には、客観的事実を忠実に記録するだけでは満足せず、人間心理の裏側に入りこむことによって、歴史動かす精神のエネルギのようなものを捉えようとする意図がうかがえる。人間性から表す哀れが、心の深いところに持っている複雑な命運に関しての考えで、詩人としての井上靖氏の気質の核心である。氏の歴史小説は傍観者の立場にたって、歴史の流れを背景として、人間性を表すのであり、本格的に詩の「意趣」と「写像」の二つの要素を備え、叙事詩のような情調を作って、読者に詩的イメ─ジを伝えたのである。すなわち、井上氏は小説家であるが、本質的には詩人であるのではないかということに達した。

キーワード
 歴史、歴史小説、詩、詩的、人間性、特徴、気質




一、 始めに
 井上靖氏(1907~1991)、日本の有名な小説家である。北海道旭川で生まれた。
 氏の作品は幼少年時代から育まれたと思われる、孤独な、凍りつくような詩情が、『闘牛』や『氷壁』のような現代小説から、『天平の甍』や『孔子』のような歴史小説に至るまで貫かれている。自伝的小説としては、少年期の回想をテ—マとした『あすなろ物語』『しろばんば』『夏草冬濤』、詩集には『北国』『遠徴路』『地中海』『運河』などがある。
 氏の小説が、多くの読者に愛されている、その大きな理由の一つは、他のどんな作家の小説より、新しい意味で、詩的だったからである。
 「読者は、あの堅固な構成の中に、まるで宝石のように煌めく、永遠や原始への郷愁や憂愁にけむる孤独の詩的イメ—ジを覗きみるからである」(『北国·解説』)を、村野四郎が氏の小説について書いている。
 「氏の小説は物語性と詩を兼ねそなえている」(『井上靖論』)と、中村光夫氏は書いている。これは井上文学を論ずる人がほとんど一致していう定説になっていて、私もその通りだと思う。
 氏における小説と詩の関係について、中村光夫氏が書いたのは、「井上氏は、自己の小説が、いわゆる『つくるもの』になってゆく危険を感じながら、それを、あくまで自分に納得のいく芸術として生かしきろうと努力している。そうした氏の努力は、いつも自分が詩人であるという強い自覚と自信に支えられて、つづけてこられたのであった」(『井上靖論』)と論じた。
 こうした意味のことだったと思うが、実は、氏の詩的リアリティは、いつも氏の小説を「つくりもの」から、或る生命的なものにまで引き上げてきたのである。
井上氏における小説と詩の関係は、氏の全部の作品に作用している。本稿では、歴史小説を対象として、氏の詩的本質を考察してみよう。主に歴史小説の特徴と特徴形成の原因から考えている。





二、 井上靖歴史小説の特徴
 アメリカの歴史小説観を貫く原理には底知れぬほどにリアリズムに立脚しようとする伝統がある。このリアリズムは日本でいう写実主義といわれる実を写し出すものでなく、歴史の流れに潜む真実を踏みはずすまいとする態度である。一連の冒険や恋愛の背景として歴史が利用されると、歴史の中に生きた一団の人々を再現させることを重視し、場所や時代が背景となったのである。
 『敦煌』のような井上靖氏の歴史小説は生身の人間は美や真をどこまでも守ろうとする本能に生き、戦乱の巷にあっても生命を持続させるためのエロティシズムに支えられて生きることを歴史の枠組の中で描いていると解訳した方がよいのであろう。
 本稿では、井上靖氏の歴史小説が、以上の意味を持つ作品も含むのである。
 歴史小説の書き方は、大分かれて、二種類があると考えられる。一つは、歴史を遠いところに背景として置いて、時代を超えたものに注目するのである。もう一つは、歴史と現実が緊密につながるのである。井上氏の書き方は、両者の中間にあるが、前者に側いている。その中に、いくつかの井上靖なり歴史小説なりの特徴が持っている。一番重要なのは、人間性を歴史に託すことと無常の思想である。

1. 人間性を歴史に託す
周知のように、紫式部は、『源氏物語』の中に、その主人公の口をかけて、物語作者の立場から歴史書を批判している。『日本書紀』以下の史書は、社会的実相のごく一部分しか描いていないのであって、人生体験の真実というものは物語の中にこそ具現されているのである、という論旨である。これを承けて後世の日本人は、『栄華物語』『大鏡』『増鏡』など、いわゆる歴史物語を創造した。これらの作品には、客観的事実を忠実に記録するだけでは満足せず、人間心理の裏側に入りこむことによって、歴史を動かす精神のエネルギーのようなものを捉えようとする意図がうかがえる。井上氏の歴史小説観も、このような日本古来の伝統的理念に根ざすものである。「小説家の歴史に対する対い方は、歴史学者の解釈だけでは説明できないところへ入って行き、表面に見えない歴史の一番奥底の流れのようなものに触れることではないか」(『自作「蒼き狼」について』)と、氏自分に述べられているのなど、それぞれを端的に示すものであろう。歴史的事実に文学的真実がプラスされてこそ、人間社会の実相が把握できるのだ、という根本的態度がここにある。
 そのために、『蒼き狼』という小説についてはいつも歴史小説であろうか、ではなかろうかという論争があるが、実は、この歴史小説観に基づいて書いたのである。「私は成吉思汗について一番書きたいと思ったことは、成吉思汗のある底知れぬ程大きい征服が一体どこから来たかという秘密である」と、『蒼き狼』を書いたモチーフとして書いている。
 歴史小説『額田女王』も、こうした立場から書かれたものと考えられる。作品は大化6年に始まり天武天皇の7年ごろに終わる。この飛鳥時代は、日本においては国家の歴史も国民の文学もまだ未成年の時代であった。しかし、未成年であるだけ、それだけ若いエネルギーもあったわけで、統一国家、統一文化という大目的に向かって、当時代人たちは古代人らしくたくましいエネルギーを燃やす。この時代は歴史の側にも文学の側にも傑出した人物を生んでいる。前者は中大兄皇子、大海人皇子、中臣鎌足らであり、後者は額田女王、有間皇子、鏡女王らである。中大兄皇子をはじめとする政治家たちは「歴史をつくる人」の側から、額田女王をはじめとする歌人たちは「文学をつくる人」の側から、共に大目的に向かって進む。それが井上靖の言及した「くろぐろと渦巻いている国家エネルギー」(『大和朝廷の故地を訪ねて』)なのであろう。氏は歴史小説という歴史と文学の接点に立ち、そこから「歴史をつくる人」たちをも「文学をつくる人」たちをも展望して、彼らの内部に渦巻いているエネルギーをとらえようとしたのである。
 小説『額田女王』は、二元的世界から成っている。歴史は時代の流れを外面的に記述しようとしたものであり、文学は詩人の目で持って人生の真実を内面から歌い上げたものである。
 外面的なものに対しても、内面的なものに対しても、作者が一番書きたいのは、歴史を「つくる」ということの心理的な根源であろう。つまり、「つくる人」の人間性であろう。
 人間性というものは、心から生ずるものである。実は、すなわち、詩的な発想とも言える。
 モリは『風格論』の中で、「発想が主に感情的なものなら、詩と散文のどちらかを選んで、表すのは、半分ぐらいチャンスと風習だと信じられるが、感情が特別に深い、切実な場合、詩で表現することは優勝的なのである」と書いている。
 心理的根源から考えると、「散文」についての理解は、大体「理知」に基づくが、「詩」に対しての考えは、普通、感情から出るものだと考えられる。これは「知」と「感」の相違であると同時に、「非詩」と「詩」の区別もそのようである。
 この視点から見ると、井上氏の歴史小説の中に、詩的抒情的な特質が、小説のそこに流れているのであると言える。静かな形で、歴史の風雲の変わりや人生体験を味わじ、民族の命運の動かすことをとらえるのである。
 歴史を書いたのは歴史を教えるためではなく、人物を書くためであるが、人物を書いたのは人物を描いたためではなく、心象的世界を伝えたいからである。歴史とは最後、破滅的なものであろう。歴史小説も徒労観に支えられるものであろう。井上氏は失れる世界の中で、永遠に続いている人間性を求める。人間性が作品の主題として、作品にロマンチックな成分を加えられ、叙事詩になれる。
 この非小説の方法を使って、小説を書くのは、井上文学の一つの特徴である。井上文学の人間性から見られる哀れが、心の深いところに持っている複雑な命運に関しての考えで、詩人としての井上靖氏の気質の核心である。

2. 無常の思想
井上氏の歴史小説はいつも詩的本質から作ったもので、いろいろ詩的な手法を使って、文学的なものを表現するのであるが、ここに言われている「詩」を、甘美な抒情詩的なものと考えては井上文学の本質を見誤る恐れがあるということである。
 氏は本質的に詩人であるが、歴史小説を書いた時、いつも冷徹な傍観者であった。『天風浪々』という随筆の中で氏が自ら書いたように、「いかなる感情もこめずに、ただ正確であることを期して表現する」ことに努力するであろう。
 氏の西域歴史小説が、「文体が本当の質量感に達するには、まだどこか脆さをのこしているが、それは氏の漢語調に、どこかにブッキッシュなものが漂っているからだ」(山本健吉 『井上靖の書斎』)と評価される。
 氏の歴史小説の中に、東洋の風景画にみられるように、作品に描かれている人間は、対象物、風景、そしてそれらを包み込む時の推移と同じく、重要な意味をもっていないのである。それらはみな歴史の流れが作り上げる興亡であり、時と大海に生じた泡にすぎない。そしてまさにこの無常の認識が作品を貫き、作品にはあますところなく悲哀感が漂っている。この悲哀感は、ただ『天平の甍』に、玄朗の話、「無事に帰国できるとは決まっていないんだ。帰国できるかもしれないし、できないかもしれない。われわれはいま海の底へ沈めてしまうだけのために、いたずらに知識を掻き集めているのかもしれない」のようである。
 この無常の思想は、人間としての無力感や歴史にとっての徒労感から生じたものである。氏は客観的な立場から、無常を知っていながら、努力や破壊などを描いている。この無常観の伝え方は、作者の主観的な評価ではなく、歴史の流れに読者が自ら感じるのである。つまり、絵画的な形から積もったものに建築されたのである。この絵画的な象徴性は、客観的に述べられ、表したいものを、読者の頭に自ら生じさせていたのである。
 氏の歴史小説は、冷静というのに感傷しない、孤独というのに悲しなかった。これは、実に、叙事詩のようなのである。
 理論的にいうと、「詩」というものになる条件としては、必ず、直感の中に、完全な情調を表現する、独立な風景を見られるのである。詩という境界になる条件としては、必ず、写像(注①)と意趣(注②)の二つの要素を含んでいる。
 ここに言われる「意趣」は、その人達が心の中で考えているところである。すなわち、生活経験から生じた考えである。「写像」というのは、「意趣」を表現するために、想像からつくった、具体的なものである。つまり、「意趣」は詩の直観的な世界で、「写像」は詩の客観的な世界である。詩の情調は、「意趣」と「写像」の組み立てによって、表現されている。
 普通の人も「意趣」というものを感じたが、しかしながら、詩人との感ずる方法が全く違っている。普通の人にとって、「意趣」を感ずる時に、悲しさや喜びを絶えず、感情に拘束されているが、その後、この悲しさや喜びが全部捨てられ、心の中に何も残さないのである。詩人にとっては、「意趣」を感じた後、そばに立ち、冷静的にそれを「写像」に転換するのである。
 井上靖氏の作品で実証すると、「意趣」は作品から表現された人間性であり、「写像」は作品の流れ、もしくは、絵画的な風景である。氏の歴史小説は傍観者の立場にたって、歴史の流れを背景として、人間性を表すのである。本格的に詩の「意趣」と「写像」の二つの要素を備え、叙事詩のような情調を作って、読者に詩的イメ─ジを伝えたのである。





三、特徴の形成
 井上靖氏の小説をよく理解するためには、作品の特徴を形成する原因に注目しなければならない。氏の作品の独特なスタイルの形成が、さまざまな要因あったが、一番基本的なのは、生活の経験と創作の手法である。

1.生活の経験から
 氏は戦争中召集されて大陸へ出征しているので、外地の戦争体験や、長い間の新聞記者生活など、自己を中心にしたものを書く気になれば書けたのに、私小説的なものは、その当時書く魅力はなかったとはっきり言っている。社会の動きを背景に、詩を軸とした構想の中へ、自己を吐き出す小説にいきなり取り組んである。

A.氏は日本が敗戦した後、小説を書き始めたのである。第二次世界大戦の余波は、日本人の生活のあらゆる分野に渡って大きな変化を引き起こしたのであった。戦前の主要な作家達の多くが、この変化に対応する姿勢を整えている間に、視野を拡大した新世代の作家達が登場した。井上靖などが、日本の社会機構の真の根源を問い始めたのである。
 「私がああいうものを書きたいと思ったということは、あの時代に生きている人達の中に、私と同じように、ああいうものを求めていた人も多かったのではないでしょうか」と、氏は『芥川賞の四十年』というテレビ放送で述懐しているが、「贅沢な感じのする作品を書きたい」意欲にかりたてられて「たまらなく自分を表現したくかったのは」、長い戦争時代の反動もあり、荒廃した現実から精神的な飢え渇きを感じとったからであろう。混迷した社会を凝視する新聞記者の眼と、詩人の心がそこにあった。忘れられていた日本的抒情に郷愁をおぼえ、清冽な泉を心に求めて、本格的な小説を目指したのである。
 この体験からもっと発展して、生じたのは、現代文明に対する反省の感情である。そして、生きていることの実感を得るために、活気に満ち溢れた行為に常に縛り付けられた人物が、そこから脱却し得なくなった結果、一種のニヒリズムに陥り、永久に自分の行為の虜となってしまう過程を巧みに描いている点にある。こうした人物を登場させることによって、互いに理解しあうことを拒む現代人の孤独な意識を探究しているところに主題が見出されるのである。
 この感情は、氏の最後の歴史小説『孔子』までも続いている。孔子と儒家思想体系を借り、理想的な社会への望みや現世に対する悲しみを現している。

B.大学での美学専攻と美術記者生涯
 氏は昭和七年、京都帝国大学文学部哲学科に入学した。美学を専攻して植田寿蔵博士の教えを受ける。昭和十一年、毎日新聞社大阪本社に入社して、昭和十四年に美術欄を担当した。終戦後、美術雑誌などにも、美術評論の筆をとることも多くなる。
 そのために、氏の作品の中に色彩感覚が鋭く鮮しく、時に眩しいくらであるばかりでなく、歴史上の人物よりも、出土品や古代の器物のほうが、「悠久な思い」という詩情を、より直接に感じさせるからであろう。ついで、これらの器物に対する興味は、それが発掘された地方に向けられるようになり、系列の歴史小説を生むことになる。

C.新聞記者としての生涯
 氏と若い時代から親交のある野間宏氏は井上氏について、「彼はひとりでにともすると開こうとする自分の心を、内側から頑強な貝柱のようなもので、引っ張りつづけているのである。そしてそれはもはや彼の意志によるというよりも、彼の心にそなわった心のはたらきの一つになってしまっているかのようである」と書き、その理由を、井上氏が久しく新聞記者生活を続けてきたことに求め、「そこで求められているものは心ではなく、言葉であり、何万言ついやそうとも、その言葉は心から生れではしないし、人の心をさぐりだすということがだきないのだ。……井上靖はひとの心と心とが一つの共通した言葉をもって通じ合うということを信じない。……たとい一時それがひとの心のただなかを動かしえたとしても、なおそこには動かされることのない他の部分があって、その部分がその心を別のほうに導く時、それはまたもや前とはちがったところに行ってしまうのだ。このような考えは井上靖が長い年月をかけてとりだしてきたものであって、如何ともすることができないのだ」と書いている。してみれば、この「如何ともすることができない」「頑強な貝柱のようなもの」が氏を傍観者の位置に引き止めているのであろうか。





2.創作の手法
 井上靖氏の小説世界は、現実の世界と同じく、安易な説明や理解を拒む。氏の歴史小説の表面を読む限りでは、よく徹底した調査に基づく細密な史的考証などを書き込んだ実録もののように思われる。しかし、理解するためには作品の内面に刻み込まれた、より深い、詩的本質上の要素を読み取らねばならない。この詩的な要素を、表現する手法として、注目されるのは絵画的要素である。
 詩の本質は何かということになると、議論が厄介になってくるが、詩は本来音楽的なものだという考えも当然である。しかし、一方に絵画的な詩があっても一向にかまわない筈である。むしろその方が、私たちの東洋的本質に根ざしているとも言える。井上氏の詩的発想は、流動的、音楽的というよりは、静的、絵画的である。

A.記憶喚起
 宇宙は、人間の思い通りにならず、移り変わりながら存在し続ける。宇宙は、数数の歴史の研究対象や、記憶を喚起する場所と同じく、あちこちにその糸口を残す。
 例えば、『天平の甍』の物語の終わり近くに、大乱の唐から「日本の僧普照」の宛名で一個の甍が奈良に届けられる場面がある。「普照はこれを誰が自分に送ったか見当がつかなかった。唐人がこのようなものをわざわざ送る筈はなかった。唐土にいる彼の親しい友人と言えば日本人では玄朗か戒融であった。普照は、送主がたれであるにせよ、大乱の唐を出て、渤海を渡り、いままた日本の自分のところへ届けられた一個の瓦製の異形のものを、ある感慨をもって眺めた」と書いて、唐土で消息を絶った玄朗と戒融の面影をもう一度偲ばせるのはまことに心にくい手法である。この結末によってこの作品は渾然たる美しさを示している。
 甍は寺の屋根の大棟の両端に載せる鴟尾である。その古い、方々がかけた甍は、中国において亡びつつある仏教と唐代の文明そのものの象徴であり、それがいたましい姿で東来し、奈良の都に建立された唐招提寺の金堂の大棟にまた新しく聳え立ったことは、将来日本における仏教の興隆を意味するにほかならない。
 氏の作品の中に、象徴的なものは、激烈な感情に相反する表面的静けさ、という特徴である。
 「井上氏の詩を読んでみると、そのほとんどすべては、そのまま一枚のタブロ─であり、絵画的風景である。(中略)詩において、静かに沈潜した心象風景として捉えたブロ─を、小説において単にパラフレ─ズしているのだと言ったらいいであろうか」(『姨捨 · 解説』)と、福田宏年氏が論じた。甍はもちろんこの小説の中心的なのであろう。そして、この場面は、この小説の結びとして作者の考え出したものではなく、最初にこの場面が詩人井上靖のイメ─ジに浮かび、それを母体にしてこの小説が組み立てられたものであろう。
 この象徴性は深く沈静した暝想的特質とも言える。氏のほかの作品にも窺える。『敦煌』の中の回鶻王族の若い娘のネックレス、『楼蘭』の中の安帰の室の墓もこのような象徴的特質をもっている。
 あたかもわれわれの生活において、ある品物の形や、一瞬間の色彩が、われわれの幸福な、もしくは傷つけられた記憶の余白に永久に刻みこまれるようである。この点において、井上靖氏は言葉の最も充実した、最も普遍的な意味における真の詩人なのである。

B.瞬間的な美しさ
 井上氏の歴史小説はいつも歴史を再構造するに当っても、創作の意志をかなり抑制しながら書いたのであるが、あちこちに、鮮やかな色彩、音声、サイレンス、動き、その他を含むイメ—ジのきわめて豊かな想像的な一節を挿入して、瞬間的な美しさから、急激な抒情的高揚をもって物語を効果的に頂点へ導いている。この詩的な、瞬間を定着した美しいイメ─ジは強い意志を伝え、作品の主題を強調するのである。この瞬間は、歴史の流れにいつも褪色しなく、中に含んでいる精神を永遠に続いている。
 『敦煌』の中で、西夏王李元昊の側室になった回鶻の王族の娘は行徳が帰ったことが知った後、城壁から身を投げ自殺する一幕がある。行徳の目で見たのはただ一個の黒点が消失することのみであるが、結局、この瞬間、行徳の後の人生に貫き、精神的な面で中堅となる。王女の全部人格の力は、この瞬間より、そのまま定着されている。
 『楼蘭』の安帰の室の自殺もそうした意味を持っている。楼蘭としての歴史の終結を象徴すると同時に、人間としての意志を伝えている。
 『異域の人』の中に、班超は三十年ぶりの洛陽に戻る時、胡地の商品が市場に溢れ、人が胡人の服装を着ても気にしないということを見ながら、自身が子供に「胡人」と呼ばれる場面がある。この瞬間は、歴史の虚無や徒労を象徴して、悲運性のような孤独な形で、嘆息する。
 氏の歴史小説の絵画的特質としての瞬間に定着したのは時間に体現される。時間の停滞は同時に、時間の無限をも意味する。詩はいつも一時のことを咏んでいたが、伝えたいのは実に持続する情念である。

C.予告から無限的な意味を表す
 芸術的な象徴はいつも置き換えることや翻訳することではなく、芸術的に暗示することである。つまり、有限的な形から、無限的な意味を表すのである。
 絵画的方法で、歴史の流れを予告して、作品は整然に詩的情調を表われている。
 『楼蘭』が例としてみると、楼蘭自身も自然に書かれた詩史であるが、氏の 『楼蘭』はこの詩についてのパラフレーズである。『楼蘭』からは深い意味を汲み取ることはできないし、荒廃した砂漠の国の純粋に歴史的な物語に過ぎないと主張する批判家もいるが、意味深く分析してみると、大昔から続いている自然に対する人間の闘争を主題として書かれている。『楼蘭』における自然の力は、塩分の濃い湖が持っている宿命的な力である。この力の源は、楼蘭の人々の神でもある河竜に象徴されている。たとえこの河竜がどのようなイメージで象徴されようとも、自然の力はいつまでも絶対に弱まることのない絶対な力であると井上靖は考えているように思われる。
そして、作品の中に、氏が色彩に象徴的な意味を持たせていることに注目されている。
張騫の率いる漢の軍隊が初めて楼蘭に近づいた時、最初楼蘭の人々は大規模な攻撃に恐怖感を抱いたが、ここではロブ湖の色彩は次のように描写された。
 城壁に登ると、ロブ湖の湖面が一枚の青い布のように静かに見えた。濃い塩分を含んだ、少しの風でも荒々しく波立つ湖がこの日このように静かであることが、人々を不安にし怖れさせた。湖面は岸に近い方が碧に、遠くになるに従って紺青に見えた。
 この個所にはロブ湖の自然なたたずまいの美しさが明白に描出されている。楼蘭の人々がたとえ恐怖感に襲われていたとしても、湖そのものは静かであった。湖は全く恐れを知らなかった。それには、青や緑の色に象徴される健全な力強さがあった。しかしながら、たび重なる匈奴との戦いのために、人々は楼蘭を去ることを決意せざるを得なくなる。このことは保護者である自然を棄てて、住み慣れた土地を侵入者の略奪にまかせることを意味している。従って出発の日に、ロブ湖は錆びついた赤い色を帯びていた。自然の怒りの象徴はいろである。湖面が黄色く濁ってしまい、小さい波が立ち騒いでいるのは、見棄てられた自然の嫉妬の嘆きかとも読みとれるが、この黄色については、さらに後にも述べよう。楼蘭の人々が去ってからは、自然は自然の成行きを辿ったのであった。
 それから二日間というもの、楼蘭は全く無人の城であった。この二日の間に楼蘭は何十年も一度に年齢を加えたように見えた。風が吹き荒れたためもあったが、築地は崩れ、路地という路地には灰のような砂が積もった。そして城邑全体が廃墟の相を帯びて色褪せて見えた。風が漸く静まった三日目の夕方、漢の数百名の騎馬部隊がここに駐屯するために砂漠を横切ってやって来た。無人の城邑は忽ち人声と馬のいななきに満たされた。ロブ湖面は黄濁し、一面に小さい波の立ち騒いでいる日であった。
 この個所では楼蘭の人々の移住を自然が拒もうとしているかのようである。楼蘭の町は暴風の急襲で砂塵におおわれ、砦は廃墟と化す。人間が町を作るはるが以前に自然が所有していたもろもろの物を自らの手で埋め尽くしてしまうのである。ここでもまた、湖の色によってある種の意味が象徴されている。黄色に濁った波はここでは危険や争いを象徴しているのである。
 それから、楼蘭とタリム河地域が争いの中心となった時、自然はただその都を埋め尽くしただけであった。その後ロブ湖は姿を隠してしまう。作者は作品を通じて古代砂漠文明を寓意的に用い、現代人に対して潜在的に内在する危機感を呼び起こしたのである。楼蘭が象徴するのは民族の悲しみである。





四、終わりに
 「詩はあらゆる芸術の母胎である」ということが、井上氏におけるように理想的に示されている例を、ほかに余り知らない。また氏も、そうした信念と自覚をもって文学してきたにちがいない。そこに母胎を一つにした二様の文学の生れることも決して偶然ではないのである。
 井上氏の中にある作家的客観性は、詩人井上氏の言葉を冷却して、その詩作品を旧式抒情詩から脱出させた。
 そして、詩人としての直観は、人生の深淵、もしくは生命のエネルギ─の最も烈しい燃焼する瞬間を定着した美しい、充実した詩的イメ─ジがしばしば見出される。
 氏の中にある新しい詩的思考は、氏の小説を、そのモチ―フの根底から、凍るように冷い詩情で染め上げ、その小説作品を、いつも清冽な感動と、気品のある形式でしめあげて、文壇的にも他に比類のない世界をつくらせているのである。氏の歴史小説はおおむね史実に即し、抑制された文体で人物と事件が描写されているが、淡々たる筆致の中にも古今を通じて変わらない人生体験の真実を暗示しようとする意図が見られる。






注①:中国語で「意象」という。美学上の定義。「意」というのは心の中で表したいもので、つまり、喜びや悲しみなど、さまざまな感情である。「象」というのは、「意」に基づいて作られた具体的な形である。すなわち、小説の流れや絵画の内容である。
注②:中国語で「情趣」という。自分の経験から生じたもので、つまり、あるものやあることに対しての感動である。


参考文献
武田 勝彦『井上靖文学 海外の評価』創林社(1983年1月10日)
村上 嘉隆『井上靖の存在空間』批評社(1980年7月31日)
坂人 公一『井上靖ノ―ト』風書房 (昭和五十三年三月二十一日)
白柳 竜一『井上靖 「詩」と私』学習研究社 (1991年7月1日)
井上 靖 『井上靖小説全集』新潮社 (昭和五十二年)
福田 宏年『井上靖評伝』集英社 (1991年增订版)
井上 靖 『孔子』新潮社(1989年)
郑 民钦 『井上靖文集』安徽文艺出版社(1998年4月第一版)
李 德纯 『战后日本文学』辽宁人民出版社(1988年2月第一版)
朱 光潜 『诗论』三联书店(1998年9月第二版)
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